辻 喬之(つじ たかし) 音楽経歴とプロフィール


アートウイングレーベルのサウンドプロデューサー。

CHART1  楽器との出会い

1963年静岡県生まれ。幼少期は父親の転勤もあり、岐阜、浜松と転々と。
現在は愛知県日進市在住。今の流れとなる様な音楽との出会いは、中学卒業するころ、モーリスのアコギを親戚の兄からもらい、(000「トリプルオータイプ」ですね〜今思えば・・・)完全なかざりとして、部屋にあったが、そんなとき「さだまさしのレコード」(当時)を聴け!と知り合いから勧められ、レコード店に行って「私花集」(アンソロジー)というのを買いました。
それを聴いたらこれこそもらったアコギサウンド!ギターはあるし、この手の音楽を聴けと紹介されるし、何か偶然が重なるものだ・・・と思いながら、ギターも飾りじゃもったいないというわけで、音楽の演奏っていうものがここからスタートしたのです。
もちろん、初めは、全く弾けません。教則本を買うにも、自分がどうしたいのか分かっていませんから、何を買うのかも分かりませんでした。それで、一番初めに教則本を買ってきて弾いたのは、例によって「禁じられた遊び」だったように記憶しています。


CHART2 初めて買ったギター

学校ではそんなによく勉強が出来る子ではなかったが、こと、勉強ではない「音楽」という世界には、本当に惹かれていった。その当時、はじめて、買ったギターは、モーリスの、ブランドで、「プロマーチン」というのがあって、当時の価格で3万円。高校時代は、仲間も増えて、4人、アコギばかりの変なグループをくんで遊んでいた。その当時さだまさしがすごい流行っていたんですね。グループ名が「こすもす」なんて名前だったな〜
ギターの技術は、こんな楽しい仲間たちとの関わりから様々なスタイルを勉強したいという欲求にかられ、レベルアップしてこれたのでしょうね。
そこから、僕のギターへの果てしない旅はスタートしました。
あの当時、アコースティックギターを弾いている人がそこらじゅうにいましたね。さだまさし、松山千春、長渕剛といった、今でも現役の超実力派アーティストが登場した時代でした。アコギをはじめたのも、元はといえば、どこかで目立ちたがりだったのでしょうか?高校3年の時は生徒会長をやっていました。


CHART3 現在の活動を築いた大学生活

大学に入学!本格的に音楽やりたい欲望は爆発。即軽音楽部に入部。アコースティックギターも、K.YairiのYW600というギターを購入。とってもすばらしい仲間や先輩方にめぐまれ、今でも感謝にたえません。
当時、アルフィーのコピーをやろう!という話があり、辻、木戸、高林という3人で、「多異夢暮館」なるバンドを結成した。
これが、まさか、この2007年にも、引っ張り出されてステージで演奏することになるとは・・・
ホント特徴のある強烈なバンドでした。その後、オリジナル曲のバンドと変遷。最大で、6人編成のグループとなっていました。
また、YLMAという「ヤマハライトミュージックアソシエイション」にも加盟しているクラブで、この活動を通して、様々な音についての勉強ができました。このときの、音響の知識、機材の役割、スピーカーの種類、マイク種類とその使い方、シールドの巻き方、いろいろなアコースティックギターのサウンド、仲間との音楽面での刺激、すべて、現在の活動の基本的な知識は、ここで身に付きました。
直接的に触れることのなかったHM/HRにもこのとき出会い、影響を受けHMF(ヘビーメタルフォーク)なるジャンル?を築いてしまいました。これが、音楽の幅がかなり広くなりました。
アコースティックミュージシャンが、44マグナムとか、野獣(のけもの)とか、レッドツェッペリンとか、TOTO、その他、かなり色の違うものを聴いていて驚かれていました。軽音楽部とかの入部というのは、こういうメリットがあるんですね。自分の知らない音楽との出会いが、ここには数多くありました。


CHART4 ライブ活動と路上

大学卒業後ライブハウス活動も始めて、自分の楽曲を作るようになった。ライブ活動は、名古屋の当時新栄にあった、「ZMA」というライブハウス。(こちらのライブハウスは、ライブスポットZと名前変更。そして、新栄から名古屋の東区、車道に移転、その後、プライム1と名前変更、現在は、オーナーが変わって、クラブスリースターとなっています。)
ここで、福井大輔と再会!彼は、大学時代の後輩でした。彼が、アコギを弾いて、ZMAでライブをやっていたんですね。たまたま、前を通りかかって、ふらっと店に入ったのが、出演のきっかけとなりました。
そして、名古屋アコースティックムーブメントの一つの時代を築いたと言っても過言ではない「アコースティック協同組合」の立ち上げ。
当レーベルアーティスト、福井大輔、生駒武義は、その当時からのお付き合いなんですよね。
そして、「辻タカシプロジェクト」というユニットを結成。フォークと、ハードロックとのドッキングしたイメージをサウンド化した「ヘビーメタルフォーク」というカセットアルバムを発表。また、その後同じくカセットアルバム「心の時代」を発表。
その頃、友人に誘われ、名古屋の路上ライブもスタート。
しかし、誘った友人は、すぐやめてしまって、僕一人取り残されてしまった。まだ、名古屋では路上ライブというものが、全く市民権を得ていませんでしたので、名古屋の路上ライブの草分け的存在ということで、テレビ、雑誌に紹介された。
本当は、以前からやってた人たくさんいるんですけどね。路上ライブは、5年継続的に行いました。そのころ、とても辛い思いをした時期でしたね。ホントにしのぎを削った時代でした。
だけど、これがあればこそ、アーティストの気持ちがよくわかるのだと思いますし、同じ釜の飯を食べたっていう感じのアーティストとは、今でもいいお付き合いができますね。
その当時から、ギター遍歴は、大変な状況で、オベーションや、YAMAHA等々使って、YairiさんもDY18等使用していましたが、関係ミュージシャン仲間の紹介で、岐阜のヤイリギターさんとのおつき合いが始まりました。現在は、ギターのモニターもさせて頂いております。


CHART5 辻バンド結成

辻タカシプロジェクトは、もともと、辻タカシソロのサポートメンバーとのドッキングしたユニットでしたが、ソロ活動後、AG、VO辻 喬之、B 長谷川憲光、EG 原田晶美、D 松山裕一、KEY 池田理愛で辻バンドなるバンドを結成。それぞれが、音楽スペシャリスト的なメンバーでの結成でした。
小さなイベント、大きなイベントに参加、練習を重ねていました。このころイベントを通して、当時浦和在住佐藤氏との出会いがあり、彼のギターサウンドに大きな衝撃を受けました。
彼のサウンドを、佐藤公彦ワールドと命名した。彼とは、現在でも、レーベル関係者としてのお付き合いで、独自の活動しています。


CHART6 Tamikoとの出会い

ある方から、デモが入ったカセットテープがまわってきて、カラオケを作って欲しいとのこと。
聴いてみたら、直感的に、「作るぞ!」と辻バンドのメンバーを集め、MDのMTRで録音。
当時はまだレコーディングと言えるレベルではありませんでした。しかし、その楽曲はTamikoの曲でした。
それを機に辻バンドにもTamikoを招いてライブを開催する等、活動の幅はさらに広がっていきました。これが優しい中にも力強い力を持つ音楽との出会いでした。
音楽の可能性というのは、まだ果てしなくある、と、さらなる道が開けた時期でした。ここから、ラブ・アース・ネットワークの音楽活動は試験的ではありましたがスタート。


CHART7 力ある癒しの音楽

Tamikoと意気投合した僕は、この力のある癒しのサウンドをすでにTamikoが立ち上げていたラブ・アース・ネットワークの活動として確立させることを提案した。
心が変わらなければ行動も変わらない!
心が変わる活動で思いつくのは、芸術活動であり、僕らに出来ることは、音楽しかなかったからだ。
1999年、Tamikoと共にそこからコンサート活動がスタート。これが今の音楽のスタートとなりました。
この力ある癒しの音楽が、大きな反響をいただくことになり、僕はいつしか、Tamikoのギタリストで、プロデューサー的な役割をするようになった。
音源もMDで録りはじめていましたが、CDの制作で道を開いてくれたのは、名古屋大須のグレコの今初男さん。
今考えると、稚拙だが、MDに録音していた音源をCD化する、という大胆なお願いを叶えてくれた、大きな出会いだった。行き場のない閉ざされた道が開けた瞬間だった。この出会いがあればこそ、今の私たちがあると言っても過言ではない。


CHART8 可能性の追求

レコーディング、CDの制作に関して、大学時代の知識は、本当に役に立った。
音楽活動を通して、様々な出会いがあり、その方々との交流から、音響機材、レコーディング、PAオペレート等々たくさんの知識を得ることができた。
プロの現場の最前線にいる人たちばかりと話しても、内容が理解できたのも、当時の活動があったからこそと思います。
そんなことから自分で情報を集め、聴いてみて、触ってみて、次回の現場に必要な機材を順次手に入れ、さらに機材をバージョンアップさせていった。
どこまでも可能性を追求していきたいと思った。
その後、電源さえあれば、コンサートが出来るという音響技術も身につけ、CDのマスタリング技術も苦労の末、可能となった。
どんな音がいい音でどんな音がよくないのか・・・。そんなラインなどないのだろうが、必死に追い求めた。
そして自らレコーディングエンジニアとして、活動を始め、独自のサウンドを形成する努力をおしまず続けた。そして、数多くのコンサート、音響のオペレート、CDの連続的な発表と、非常にまで忙しい日々を送った。2005、中司氏との出会いで、PCによる制作がスタート。2007年現在CD11枚発表。


CHART9 プロとしての意識

2002年から、ラジオのオンエアーがきっかけで、プロモーションの方との出会いがあり、ここからプロとしての活動がスタートした。
ラブ・アース・ネットワークから、グループ名「雅音人」に。
やっとプロっていう意識を持ちだしたのはこのころだったかと思う。
人前で出たら、プロなんだとライブハウスで昔からたたき込まれていた僕でしたが、ラブ・アース・ネットワークの活動としての音楽は公益事業。雅音人は音楽オンリーのプロなんです。
やってることは同じなんですが、ここにプロとしての意識レベルの大きな芽生えがありました。
初めてのメジャーレコード会社、キングレコードでのレコーディング等々、さらにCDの制作、機材を積んでコンサートにと東奔西走する日々が続いた。


CHART10 レーベルを作ろう!

こう言いだしたのは僕です。あることがきっかけでした。素晴らしい音楽をやっているのは、プロのミュージシャンだけじゃない。
アマチュアミュージシャンも、社会を動かすような素晴らしい音楽をやっている方は絶対にいらっしゃる。
だけど、どんなに素晴らしい音楽をやっていても、プロのミュージシャンならプロというだけで認められ、アマチュアだと認められない?これはどう考えてもおかしいと思った出来事があったのです。
長い長い音楽とのつきあいをここでしっかり生かして、素晴らしいアマチュアのアーティストを発掘していこう。そして、芸術のジャンルの枠を越え、みんな、刺激しあい感じあえる機関を作り発信し、音楽は、力を持っている!芸術は、社会を動かす力がある!このレーベルでそんなことを訴えたく思ったのです。
未来永劫残っていく様な音楽を作りたい。
これは、雅音人がそう思い活動していることが発起となるところでもありました。ARTWING芸術のつばさ・・・。いつかきっと大きくはばたくことを期待して、ここにARTWING LABELを発足に至りました。

2005年談


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